② 小我の私は何か?
神秘体験を得て、深い部分の私は真実を知って安心した。
平安で、感謝に溢れている。
そういう瞬間は、思うだけで忽ち、恩寵のようにやって来る
平安が満つる。愛しています、愛しています、愛しています
だが、ごく普通の日常では、相変わらず多くの時間をジタバタと暮らしてしまう。
本来の姿に戻りたいと渇望しているが、少しも戻れない!
知った今も戻れないのは何故なのか???
他者など存在しない、全ては一つだからと知っていても、ちゃんと他人と自分を区別しているではないか!どういうことか?
大我の真実の〈私〉は神なのだが、肉体に在る小我の私は何なのだ?
悶々とした日々
それから何年もして、自分の分厚い信念体系に気付いた。
小我の私とは、オリジナルな私の信念体系の無数の束で出来ているのだ!
そして、その信念体系の保持者が、人間なのだ!
だから、その信じている事を、止めない限り、信念体系を手放さない限り、私は人間であり続けてしまう!
ひとつひとつ自分の思考に注意することにした。
その思考の原因を調べる。
そう考えたらどんな良いことが有るのか?
何のためにそう考えるのか?
腹が立つ時、不機嫌な時には訳があって、怒って終りになる訳では無い。
事態が変わるまでダメである。
人は不安で一杯なのだ。多くの感情は不安から発生している。
しかし、喜びは、喜ぶきっかけは有っても、それ以上に理由は要らない。
ただ嬉しくただ幸せだ。自然の喜びや笑いは愛と同じだ。
だから、笑うと細胞も喜んで、病気も治ってしまうらしい。
さて、もっと驚いたのは、この世の仕組み。
私が居るこの世は、どうやら私の信念体系の投影で出来ているということ!
外界と思っているものは、全ては私の内側に有って、それを、外の世界のように見ているのだ。
そして、他者は私自身の投影で有り、私自身でもある。
そう、他者はそれぞれに個我なのだけど互いの信念体系の接点で交わって参加しあい、世界を共有しているのだろう。
「他者を自分の様に愛しなさい」とキリストは強く言っている。
他者を何回許すかと弟子に尋ねられて、何度でも許し続けよという答えをしている。
許す相手は誰なのだろう?誰か関係ない他人なのだろうか?
私が見ている外界は、私が創っていて、参加してくれている他者と見える者は、他の誰でもなくて、実は統合したくない、又は出来ない、自分自身なのだ!
だから他者を許すとは、自分を許すことなのだ。
受け入れたくない自分を、分離して他者として切り離して見ているのだ。
(映画Life of pai が興味深い)
許して受け入れ、抱きしめて一体化すると、分離が止み統合される。
他者を、他者と思わなくなったとき、素晴らしいことが起こる!
突然、ムツゴロウさんを思い出した。どんな動物にも人にも愛情たっぷり、嫌だと少しも言わない。
私はまだまだ好き嫌いとか多くてダメだねえ…でもやるしか無いからガンバロー
どうか、力添え下さい!(深夜夜勤にて)