夕日見便りmickey

Life is Amazing!素晴らしき今ここ

③ イリュージョン

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3・エゴ

初音ミクはpc上で創り出された仮想の歌姫、どんなにファンになっても、どんなに応援しても、Pcから脱け出して握手したりはしない。いや、技術は進み、3D化は勿論、やがて触感を持ち、匂いや気配さえするように成るかも知れない。それでも彼女は、やはり幻。なぜなら、彼女は実在としては存在していない。非存在の存在だからーあれ、ややこしいね。しかし、誰でも、初音ミクはpcの中だけのイリュージョン、であることはわかっている。

では、実在とは何か?

誰かが答えてくれそうです。そんなこと当たり前、それは此処、この世界、生身の人間が、日々、大騒ぎして生きている、食べたり眠ったりしてる、この世が実在です!と。

そして、それは本当では、、、、、、無い!

 

初音ミクと同じく、イリュージョン!  幻!    非存在! 

宇宙空間の様な広大な所に、3Dで投影している幻灯世界を想像して欲しい。近寄って見ると、それはどこまでも細部が精密で、物凄い。その中には生き物が居て、人間もいて、何もない宇宙空間に、ポッチリと映された靄の様な世界とも知らずに、その中で大真面目でひしめき合って生きている。実は私達の知っている宇宙も、その幻燈の中に有るのだけど。

兎も角、幻灯機の映した幻。では、誰が、幻灯機を回して映し出しているのか?

 

それこそが、〈存在〉     分離の夢を見ている!

 

〈存在〉は始まりもなく終わりも無く、時空間の無い、永遠にwholeで一成る存在。

その〈存在〉の片隅(?)が夢を見ている、、、分離の夢、、、

決して分かれることの無い存在から、分離してしまったという想像。

それはまるで、親の愛に気付かない放蕩息子が、親に背き、負い目と罪悪感で一杯ながら、ヤケになってやりたい放題、あだ花を咲かそうと躍起になっている姿に似ている。

分離の幻を創って、自らもその幻の中に住み、分離された個として生きていると信じ込み、埋め合わせの様に独自の世界を創り出してその世界を支配しようとしている。やがて分離は分離を生み、もう少しも自分が、とてつもない偉大なwholeに属しているとは思い出しもしないし、其処の全てが幻だとは気付きもしない!!

 

大きな瞳と長い手足に青くて長い髪、歌と踊りが上手く、初音ミクはトップスター、すると、今後も初音ミクはずっと初音ミクで有ろうとするでしょう。アイデンティティが生まれて、それを守ろうと。又、更に発展したいと思うでしょう。今や初音ミクのエゴも立派に確立。こうして初音ミクは、初音ミクを脅かす全てに注意を払い、又チャンスは逃さない。

失う不安と生き抜く競争で初音ミクにも眠れぬ夜が来るでしょうか?

分離したと思っている個は、存続を願うエゴとなった。エゴはいつも生き抜こうと必死です。

 

② 小我の私は何か?

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神秘体験を得て、深い部分の私は真実を知って安心した。

平安で、感謝に溢れている。

そういう瞬間は、思うだけで忽ち、恩寵のようにやって来る

平安が満つる。愛しています、愛しています、愛しています


だが、ごく普通の日常では、相変わらず多くの時間をジタバタと暮らしてしまう。
本来の姿に戻りたいと渇望しているが、少しも戻れない!
知った今も戻れないのは何故なのか???
他者など存在しない、全ては一つだからと知っていても、ちゃんと他人と自分を区別しているではないか!どういうことか?
大我の真実の〈〉は神なのだが、肉体に在る小我の私は何なのだ?
悶々とした日々
 
それから何年もして、自分の分厚い信念体系に気付いた。
 
小我の私とは、オリジナルな私の信念体系の無数の束で出来ているのだ!
そして、その信念体系の保持者が、人間なのだ!
 
だから、その信じている事を、止めない限り、信念体系を手放さない限り、私は人間であり続けてしまう!
 
ひとつひとつ自分の思考に注意することにした。
その思考の原因を調べる。
そう考えたらどんな良いことが有るのか?
何のためにそう考えるのか?
 
腹が立つ時、不機嫌な時には訳があって、怒って終りになる訳では無い。
事態が変わるまでダメである。
人は不安で一杯なのだ。多くの感情は不安から発生している。
 
しかし、喜びは、喜ぶきっかけは有っても、それ以上に理由は要らない。
ただ嬉しくただ幸せだ。自然の喜びや笑いは愛と同じだ。
だから、笑うと細胞も喜んで、病気も治ってしまうらしい。
 
さて、もっと驚いたのは、この世の仕組み。
 
私が居るこの世は、どうやら私の信念体系の投影で出来ているということ!
外界と思っているものは、全ては私の内側に有って、それを、外の世界のように見ているのだ。
 
そして、他者は私自身の投影で有り、私自身でもある。
そう、他者はそれぞれに個我なのだけど互いの信念体系の接点で交わって参加しあい、世界を共有しているのだろう。
 
「他者を自分の様に愛しなさい」とキリストは強く言っている。
他者を何回許すかと弟子に尋ねられて、何度でも許し続けよという答えをしている。
 
許す相手は誰なのだろう?誰か関係ない他人なのだろうか?
 
私が見ている外界は、私が創っていて、参加してくれている他者と見える者は、他の誰でもなくて、実は統合したくない、又は出来ない、自分自身なのだ!
 
だから他者を許すとは、自分を許すことなのだ。
 
受け入れたくない自分を、分離して他者として切り離して見ているのだ。
(映画Life of pai が興味深い)
 
許して受け入れ、抱きしめて一体化すると、分離が止み統合される。
他者を、他者と思わなくなったとき、素晴らしいことが起こる!
 
突然、ムツゴロウさんを思い出した。どんな動物にも人にも愛情たっぷり、嫌だと少しも言わない。
私はまだまだ好き嫌いとか多くてダメだねえ…でもやるしか無いからガンバロー
 
どうか、力添え下さい!(深夜夜勤にて)
 

① 始まりー私とは?

 

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自分の為にノートに書き付けていたものを、公開されるブログに書くことにした。求道は孤独な作業なのだけど、ひょっとして、同じような道の途上にいるどなたかに出逢えるかも知れず、そうしたら助け合って進歩したいものだとも思ったりしている。

 

小さい頃には陽光はキラキラと眩しく、生命は不思議に輝いていた。真っ青な空も、真っ赤な夕焼けも、近所の家のお風呂を沸かすただの煙突の煙も、私の目には等しく不思議で堪らなかった。

この世はなんて奇妙で美しいのか!

そして私がいる!

エート私ってなあに?
 
手を見る。指が意のままに動く  〜だから、これが私らしいぞ〜、
でも何となく、そんな筈は無いと、しきりに感じる。
本当の私はこれでは無い! 何かが叫ぶ!
 
こうして、本当のことが、本当の私を知りたいと思い始めて密かな探求が始まった。
密かな訳は、そんな事、誰も興味も無いし、誰も真実、宇宙の真実を知らないのだと判ったから。そんな話をしたら、仲間外れになってしまう。
もう、ずっと昔の話です。今なら、そんな話題も、スピリチュアルなんて言って、大分に市民権を持ちましたがね。
 
1994年、私は、とうとう真実の自身をしりました!
それは突然起き、想像を絶する体験でした。
この体験を、とても言葉にするのは難しいのだけど、誤解を怖れずに少しだけ書いてみよう。
まずあれ程知りたかった、本当の私とは、トーンデモナイ存在 であった!
 
凡ゆる存在は全て〈〉自身!!
 
この時の〈〉とは、人間の個人の私では有りません。
存在そのもので、全てを包含する存在、しかし、同時に、体験、観察している私もいて、驚いたり、質問(?)したりしています。質問と同時に答えも分かります。
 
凡ゆる全ての物が、この世では矛盾するものが、少しも矛盾せずに同時に存在していた。例えば、大音響の歓喜の爆発と全き静寂静謐が同時に在する。
そして、全てがそこに在った。
しかし、時間は無かった。
そして探したが〈悪〉は存在さえしてはいなかった!
 
愛、至福、自由、永遠、という言葉の本当の意味を知った。もの凄い!
人の世ではこれらの言葉は汚れたそのかけらみたいになってしまっている。
 
暫らく色々なことが起こって、やがて戻ったとき、私は普通に部屋の中に経たずでいた。
普通の部屋の中に、ただの私は呆然と佇み、目に映るのは、いつもと少しも変わらない風景。体験の片鱗は何処にもなかった!
 
だから私は辺りを見回して思わずに叫んでしまった。「これじゃーわかるわけないよ!」